〜 非常階段と私 〜



フィレンツェのホテルでひどい目にあった。
それは、その日一日中、美術館やら教会やらを点々と歩き回り、
皆、クタクタに疲れきった日にわざわざ起こった。

まさにその日は疲労度98%・・・といったところか・・・。
今回の旅で、一番ハードスケジュールな日だったのだ。

夜、10時半頃、本日お泊りのホテルに着き、添乗員さんがチェックインをしに
カウンターへ向かった。
その間、私達はロビーのソファに座り、皆一様に死にそうな表情でマッタリと待
っていた。
ちなみにソファは8個程しかなく、それを真っ先に取得したのはもちろん、我ら
がオババ様達だ。
ホテルのロビーに入るや否や、曲が止まった所で椅子を奪い合う、“椅子取りゲ
ーム”さながらの勢いでオババはソファを占領していた。

仕方なく若者組みは、しゃがんだり壁に凭れたりしながら、言葉少なに、ただポ
ケラ〜っと添乗員さんが戻って来るのを待っていた。皆さん本当に疲れてる
ご様子・・・。

しかし、いくら待っても添乗員さんは戻って来ない。
彼女がチェックインをしにカウンターへ行ってから、もうすでに20分は経った
であろう。
遅い。遅すぎる・・・。チェックインがこんなに時間かかるわけがない。

・・と、カウンターの方から、微かにホテルマンと添乗員のもめてる様な会話の
スペイン語が聞こえてきた。
『一体、何事だろう?』
たまりかねて、ツアー内の中国人カップルの男の人(確か、チョーさんと言った
かな)が様子を見に行った。
そして、しばらくして戻って来たチョーさんはこう言った。

 「どうやら部屋が足りないらしいよ。今日はツアーバスの運転手さんもこのホ
テルに一泊するらしいんだけど彼の分の部屋が予約されてなかったみたいだ」

それから更に5分後、皆の元に添乗員さんも戻って来た。そしてこう言った。

 「皆さんお待たせしてすみません。ホテルの人が、
 “運転手さん(男)の部屋がどうしても取れない”とか言って、私(女)と同
じ部屋にしようとしているの。
 “そんな事出来るわけ無いじゃない!”って怒って、今まだ抗議は難航中・・
・。」
っと、早口にまくし立てて、再びカウンターへ戻って行った。

私達は思わずため息を漏らしてしまった。
明日の朝の出発は6時である。
5時45分にはホテルのロビーに集合!≠ニいう、過酷なスケジュールなのに

もう今は夜中の11時過ぎ。
話し合いはなかなか終わりそうに無い。

もうここまで来ると、ツアー内で笑っている者は一人もいなかった。
あのいつも元気なオバ様達ですら、口をあんぐり開け白目を剥いて、今にも気絶
寸前といった感じだ。
いつものあのパワーを持ってしても、やはり蓄積された疲れには体の方が追い付
かないのだろう。
私達ですらこんなに疲れているのだから、50を超えた人達にはそーとーのダメ
ージがあると見受けられる。

シーンと静まり返ったロビーで、友人がボソッと『私達(部屋が決まってる人達
)だけでも、もう部屋に入れてくれたらいいのにね。こんなとこで待たせないで
・・・。』っと私に耳打ちした。
彼女は皆に聞こえないように呟いたつもりの様だが、何分ロビーは声が響くので
、今の自己中心的発言は、
恐らく皆に聞こえていたであろう・・・。
だが、誰も何も言わなかった。

再び静まり返ったロビーに、チャリチャリと金属のぶつかり合う音が響いてきた

添乗員さんが、ようやく皆の部屋の鍵をゲットして戻って来たのだ!
話し合いは30分以上に及んでいた。

さっきまでホテルマン達と部屋の事で言い合いをしていた彼女の顔は、まだうっ
すらと紅潮している。

「全くぅ〜!イタリア人てホントに強情で嫌だわ!しつこく問い詰めたら空き部
屋あったのよぉ!
 何で“無い”なんて言うのかしら。皆さん疲れてるのにごめんなさいね。」
っと今だ冷め遣らぬ怒りに声が震えていた。

・・・なんだ、あるんじゃん、部屋。ホント、添乗員さんじゃないけど、何でホ
テルマン達は“無い”って
言い張ったんだろう・・・。そんな事して、彼等には何か特になる事でもあるの
だろうか・・・。

私は、怒るというより不思議に思っていた。・・・ホテルマン達の真意は一体・
・・?

明日の予定を簡単に説明し、やっと鍵が手渡された頃には、もう時刻は12時近
くになろうとしていた。

私と友人の部屋は3階だった。
またしてもエレベーターがなかなか来ないので仕方なく、他の3階の部屋の人達
と『非常階段を上って行こう』と言う事になり、重いスーツケースを引きずりなが
ら非常階段を上ることにした。
体はかなりしんどかったが、3階分だったら何とか頑張れるだろうと思ったのだ


幅は広いが、結構 急な階段だった。
ハァハァ言いながら、何とか3階分上りきった。
『着いた〜〜〜!(喜)』・・・っと思いきや、そこはまだ一階半の表示。

「・・・あれ?3階分上ったよね・・・。でもここ、まだ1階と2階の間だよ・
・・?
 あ、そ〜か〜、今日はそーとーの疲労があるから、いつもより必要以上に階段
が辛く感じられるのかぁ!」
と、疲労で麻痺した頭でボンヤリ考えながら、またスーツケースを両手で持ち上
げヨタヨタと階段を上り始めた。
時折、スーツケースの底が階段のヘリにガツンガツン当たり、
その度にその衝撃で、まっさかさまに転げ落ちてしまいそうになるのを必死に踏
ん張って耐えながら、とにかくひたすら上を目指した。腰がキリキリ痛んできた。

忘れていたけど、私は椎間板ヘルニアなんだぞ。・・・拷問か、これは・・・。
椎間板が全部出てしまったらどうしてくれるんだ!!

椎間板が全部出てしまう前に、どうやら3階と思われる場所まで上り切り、ホッ
と一息、
階段表示を見ると、《M2》と書かれていた。つまり、2階と3階の間・・・。
ハァ??
・・・おかしい。絶対におかしい・・・。これだけ上って、まだ2階半とは!?
もう、5階分くらい上がってる気がする。絶対に・・・。
私は、突然、幽霊道路の話を思い出した。

日本のどこかに、“幽霊道路”と呼ばれる道路があるらしい。
それは、何度その道路を通り過ぎても、気が付くといつの間にか、またその道路
に戻って来てしまって、
なかなか目的地に辿り着けない・・・・っと言う、インチキ臭い話なのだが・・
・。
どう考えたって、その場所の地理的な問題か、もしくは人一倍方向音痴な人間の
作り話か、どちらかだろう。
そんなアホくさい理由で“幽霊道路”と呼ばれるなんて、幽霊と道路に失礼とい
うものだ。
・・・しかし、それは日本のどこにあるのだろう。ちょっと行って見たい気もす
るが・・・。

さてさて、話をホテルに戻して・・・。
変だ変だと首をひねりつつも、更に階段を上がっていくと、やっと“3”と書い
てある場所に辿り着いた。
膝はガクガク笑っている。腰は痛いし、重いスーツケースで、手は真っ赤。
3階・・・。これが3階分階段を上った疲れだろうか・・・。
心臓はバクバクと脈打ちながら、喉まで迫上がってきそうだ。

もうほとんどスーツケースを引きずる様な歩き方で、私達は301の部屋の前に
着いた。
ツアーの人達とオヤスミの挨拶を交わし、部屋に入った。

先ず、何よりも先にベッドに倒れ込みたい!
口にこそ出さないが、友人も同じ事を考えているだろうことは、彼女の表情で判
断できた。

部屋は割と広くて綺麗だ。【中の上】といったところか。
大理石のテーブル、大きくてゆったりしたソファ、画面の広いテレビ、クロゼッ
ト、大きな窓、立派な書斎机、豪華なシャンデリア、ふかふかの絨毯・・・・・・・・・。
まずまずである。

だが、今の私達が最も欲してるものは、大理石のテーブルでも、迫力ある映像が
見られるテレビでも、
豪華なシャンデリアでもない。  ベッド!! ベッドなのだ!!!ベッドはど
こ〜〜??

・・・・・・無い。ベッドが無い。部屋のどこにも無い。無い無い無い、恋じゃ
ない・・・♪♪(古い、寒い)。
しかもこの部屋には、ベッドだけじゃなく、洗面所もお風呂もトイレも無かった
のだ。
『まさか、トイレもお風呂も共同?・・そんな・・・民宿じゃないんだから・・・』

ボー然としていると、友人が部屋の隅を指差して、「下に下りる階段がある」と
叫んだ。
「えっ!?」っと振り返ると、そこには下に下りる階段があった。
その階段を下りて行くと、下には何と、もう一つ部屋があったのだ。
その部屋は上の部屋ほど豪華ではないが、待ち望んだベッドがあった!!
洗面所もトイレもお風呂もあった。

そうなのだ。一部屋といっても、そのホテルの一部屋の構造は、上と下、二部屋
あるのだ。
お洒落なマンション等によくある、中二階という奴だ。
つまり、上の部屋がソファやテレビが置いてあるリビングルーム。
下の部屋が、洗面所やベッド等の寝室となっていた。
ちなみに、外に通じるドアは上の部屋にしかない。

・・・という事は、私達はあの非常階段を3階×2部屋分の、計6階分を上がっ
て来たわけだ!
ヘビーなスーツケースを持って・・・。
やっぱりな。辛いはずだよ・・・。トホホ。
今頃、他の部屋の人達も、この謎を解明している頃だろう・・・。

もう一刻も早くシャワーを浴びて寝てしまいたい私は、すぐに着替えを出そうと
スーツケースを探した。
・・・しまった!上の部屋に置いたままだ・・・。
なんてこった・・・。再び階段を上り、スーツケースを抱えヨロヨロまた階段を
下りてきた。
一体なんだって、こんなに疲れた体に鞭打たなきゃならんのよ。
非常階段の次は、部屋の無意味な階段で苦労させられるのか。

シャワーはシャワーでお湯が出ないし、窓のブラインドは壊れてて閉まらないし
(外からお風呂現場が丸見えでごわす!)、友人は、ベネツィアで買ったばかり
のブレスレット(日本円にして約700円)を
部屋の中で失くすし全く最悪なホテルだった。
(まぁ、ブレスレットは自分が悪いんだから部屋のせいじゃないんだけどね)

部屋の構造は変わってて確かに面白いが、疲れてる時に泊まるホテルではないな
と思った。
こうして、明日の朝は5時起きで、またスーツケースを上まで運んで上がらなく
てはならないのだ。
お湯の出ないシャワーを浴びて、更に冷えてしまった体をベッドにうずもらせな
がら、あっという間に眠りに落ちた。

  夢を見た。ただひたすら階段を上ってる夢。
  上れど上れど、いっこうに最上階に着かない。
  周りの空間はただ真っ白で何も無い。
  そこには、階段と私しか存在しないようだ。
  上を見上げると、階段は雲を突き抜けて天まで続いてた。
                              
今でもその夢の情景を覚えている。
夢にまで階段が現れるなんて、はっきり言って悪夢だ。

そういえば、イタリアに来てからどこのホテルでもエレベーターは壊れてたり、
なかなか来なかったりで、結局いつも非常階段を利用していた。
しかし、この“いつも非常階段を利用”していた事が、後々更なる大惨事を引き
起こしてしまう事になろうとは、
この時の私は、まだまだ知る由も無い・・・。