社交辞令の“悪”



 私が悪と考えるものの中には、『社交辞令』というのがある。これは時には便利でよいとされるが、実際は悪以外のなにものでもない。

 私は何度それによって傷ついたことか・・・、と書くとおおげさだがそれに近いことが多い。私は最初に人に会うと「社交辞令は嫌いだから!」と強調する。がしかし、実情はそれらがわんさか。

 ここで言う『社交辞令』とは、別に私からではなく相手方から、何かの誘い、要望、提案などがある。私はそれを普通に受け止める。最初に会ったときにいう言葉を言った後での出来事・・・。それでも実現するかのように話す。しかし、1ヶ月待とうが半年経とうが一向に何もない。いったいこれはどういうことなんだろう?

 これこそが悪の根源だ!私はいつも思う、“だったら言わなければいいじゃないか。できなこと、しないことは最初から口に出さなければ良い!”と・・・

 それは人を傷つけ混乱させる。同じような思いをする友人が職場である人にこう言われたことがあるという。「最初から期待しなきゃいいんだよ。最初から期待しなければ、あとでそんな想いをすることもない」

 冗談じゃない、基本的なスタンスは”最初から期待しないじゃなく、しない予定のことは最初から言わず、期待させない”だろう。みんながみんな社交辞令に酔いしれたり、ナーナーで済ませようと考える人ばかりではない。私みたいにストレートにそれらの言葉を受け止める人間だっているのだ。

 それが人間関係を潤滑にするとでも思ってるのだろうか。とんでもない、何度も言うように、仕事関係や、それに近いものなら確かにそうだろう。でも友達関係の間柄なら必要ない。私は社交辞令を“波風を立てる道具”と称している。

 もちろん、その気持ちがあるのに実行できないこともあるだろう。でもその際にはアフターフォローが必要だ。それについてはもちろん忘れてないんだよ、という気持ちを伝えるということが。やはり伝えるという好意はとても重要なことだ。やはりTPOに合わせた社交辞令ってものが必要だと思う。