敬語の不思議


 日本には尊敬語や謙譲語などという丁寧な言葉がある。さて、これってどんなもんだろうか・・・難しくは考えることはしない。

 言葉というのはその国の文化や背景、人々の暮らし振りまでもを如実に表しているものだと思う。曖昧と言われる日本語。でも言語のなかでここまではっきりとした厳格なことばがあるのは日本と韓国くらいなんじゃないかね。

 逆にアメリカと言えばほんと言葉の通りあのまんまじゃないかと考える。余計な言葉は用いらず、簡潔に時に言葉足らずに聞こえることさえある。そう、あの国では大統領のことを『ジョージ』と呼べちゃう民族なのだ。もちろん、どの国にも丁寧にいう言葉はあるだろう。しかし、その数などたかが知れている。日本語ほど、厳密に間違いの許されない言語はないでしょうね。

 実は私、敬語があまり好きではないのだ。もちろん、敬語こそ日本語の”美”と考える人もいるだろう。現にそれは美しさを感じることがある。だから日本的な美しい女性も作られていることだろう。

 でも、同時に言葉というのは犯罪を生むものでもあると私は思う。最初に書いたように、その国の言語というのは文化やあらゆる面を表している。日本語にはそういった言葉が数多くあって、それは上下関係をはっきり表していることでもある。それがクセモノ。もちろん言葉というのは文化や国民性などが出来上がって発展していく言葉だから言葉ができて、上下関係ができたわけではないけど、時に私はそれが悪に結びついているって考えるのね。

 日本人が物事をはっきり言えないのは言葉が邪魔をしているからだと思う。例えば、電車で人にぶつかったときあまりあやまる人がいない。特にそれが年をとったおじさんが若いお兄ちゃんにぶつかったような場合・・・このときじじいは無意識に『こんな若造に丁寧に謝ってたまるか』などと考えるかどうかはわからないが、全ての面においてこのようなことはあるだろう。

 それに、お礼などもそうだ。日本には「すいません」ていうお礼にも謝罪にも便利な言葉が存在する。でもこれで本当の真意が伝わるだろうか?答えはNO。もし仮にお礼の言葉が上下関係なく『ありがとう』ということばしかなかったらどれだけありがとうが増えることだろうか。だって日本人は友達にはすぐ何度もありがとう、ありがとうって言えるじゃないか。私はいつも欧米を見習うべきだと思う。人になにか優しさを受けたら「ありがとう」、なにか不快な思いを与えてしまったと思ったら「ごめんなさい」これをすぐスマートに言えることは常々感心する。

 私は昔から“敬語のない世界”というのを想像していた。そうすれば抑圧された関係や仕事といったあらゆる人間関係で人間本来のコミュニケーションがとれるんじゃないかと考えたからだ。日本語ではいう言葉はもちろんのこと、話す言葉遣いが重要になってきて、真の心から遠ざかっていってる気がする。一定の言葉で皆話していたら、日本的な”どうでもいいじゃねーかー”というような無用な争いや、いやらしさというのも薄れると考えたからだ。

 もうひとつ例を挙げてみる。例えば近所のおばあちゃんに会ったとしよう。そのおばあちゃんに、「あっ、お久しぶりですね。最近お加減はいかがですか?たまには我が家のほうにもお寄りくださいね」というのと、「おーばあちゃん、元気かい?ここんところ体どうよ?少しは良くなったのかい?ちょっと〜、ひまなとき家に遊びにきなよ!」・・・どちらが良いか。

 もちろん私は後者のほうだ。なんて真意が伝わるんだろう。なんて人間的優しさが溢れてるんだろうって感じる。これは日本にも存在する。下町や地方に行けばね。私が思う原点ていうのはこんなあたりにあるような気がする。なんの気負いもなく、お互いの気持ちを伝えあう。私はどんなに年が開いてようとも“おばあちゃんと孫”的な関係を大事にしていきたいと強く思う。

 私は日本語が好きだ。日本語の美というのも感じている。とても外国語じゃ表現できないことが山のようにあるこの言葉が・・・。美しい言葉を大切にするというのもひとつだけど、それに気をとられているばかりに結局相手に何も伝わらないということだけは避けたい。どんなに言葉が汚くても、間違えててもこころは伝わってくるものだと思う。

 よく、「あいつ、口は悪いけど腹の中はきれいなやつなんだ」・・・・そんな言葉を聞くことがあるけど、それってすごく好きです。それに信じたいと思っちゃう。

 でも!使い分けが大切!若い子達の中にいるようなひどい言葉を使うのは許せましぇ〜ん!美しい言葉と真意の伝わる言葉、その両方を使い分けてこそそのふたつが共存していくことでもあるし、日本の美徳なのではないかね。口の悪い私が言う資格などない!というご意見もありそうだけど、そんなのしったこっちゃない。
ただ、“どれだけ真意が伝わるか勝負”みなさんも始めてみては・・・??