嘘と尊厳


 この間、札幌に帰ったときのことで日記には書かなかったことがある。10月8日のことだ。
 それは法事の日、それが終わってちょっとした叔父とちょっとした話し合いになったことがある。私のことではなくてママのことだった。そこで私はママを一生懸命かばっていたらじじいと喧嘩になった。いきなり怒鳴りだし、すごいケンマクで・・・。私も意見を述べる権利を主張していた。でも私は約束があってもう間に合わないため早くその場を離れなければならなかった。

 すると、私に向かってつかみかかってきた。そして頭をぶったりしたのだ。私自身は手を出したりしなかったけど、つかみ合いの喧嘩になってしまった。そのとき私は右手を負傷した。今でも跡が残っている。

 その際、私に向かってひどい言葉が投げられた。内容こそは言わないし、言いたくもないけど、それは人間の尊厳を著しく傷つける言葉ばかりだった。私は一体何のために生まれてきて、そして今生きているのか。私はいなくていいのか。そうともとれるような言葉だった。でも私は以外に冷静で約束のことばかり考えていた。顔に傷がついちゃたまったもんじゃないとか、地下鉄の時間とか・・・。不思議とそのときは平気だった。

 あと、これはこのときとは違う話だけど“嘘”・・・
こちらのほうも内容はともかくとしてつかれた嘘がある。かなりこたえた。人間、ついていい嘘やつかなきゃいけない嘘というのが生きていると必ずある。でもそれは一部に限ったことだと思うのさ。

 不思議と嘘というのはわかるものだ。私はヘンなところでそういうのに長けている。だからちょっとしたことでもわかってしまったりする。だから私はいつも心の中で
 「頼む、お願いだからもうそれ以上は口を開かないで。全部わかってしまってるから。」、そう叫ぶことがある。

 私はそれが嫌だから可能な限りは正直に話し、そして表現する。例えば正直に話されてショックを受け悩む日々もあるだろう。でも、それが真実ではないとわかっているのにその状況のまま過ごすというのは一種の拷問に近いものがある。

 嘘も人間の尊厳を傷つけるのも真っ平ごめんだ。
尊厳を傷つけられるのは、その人そのものを否定されるということ、そして嘘は、その人への信頼感を否定されることに等しい。どちらも否定されるという意味で似ていると思う。もう一度言いたい。嘘は生きていく中で必ず必要なもの。それで自分をガードしたり物事を進めていけるものだと思う。私だってある、もちろん。

 でも以外に簡単についている嘘こそが人を傷つけるということ。つまり簡単につく嘘は簡単にわかられてしまうことが多いのだ。私を含めそれが知られてしまったら罪になる。見極めが必要だけど、正直に話してそれでダメならダメなのだ。遅かれ早かれその程度だといえよう。でも嘘は取り消しができることもあるとおもう。こう言ったけど実はこうだ・・・とか・・・。この場合いくらでも心のリセットがきく。それどころか真実がわかる喜びのほうが大きかったりすることだってあると思う。

 こんなマイナスな文章でごめんなさい。自分でもなんか違うことだってわかってるけど、自分自身のなかで書いて消化しておきたいって気持ちがあったから。札幌での出来事もそれ以外も、時と共に珍しくもやもやしていた。そんなときこそ私の『文章』という舞台ですっきり!って思った。