2003.5. 4(Sun) 別居

      7.28(Mon) 離婚

      8. 8(Fri  子供達の戸籍・移動申請

      8.20(Wed) 母子家庭手当申請

     

「しっぺがえし」

 私のライフスタイルに大きな変化。丸10年連れ添った夫と別れた。

10年…長い月日…両親の心痛 そして何より子供達のこころに私は、これから答えて行かなければならない。支えてくれた親友へ感謝の気持ちと共に書きたい。

 子供達は、何も知らない。いや、もう感じているのだろう。理解するのに間がかかるだけなのだろう。父親が5月に家を出て行った日、私達は大きな公園にお弁当を持って出かけた。とても天気が良く、一緒に来てくれた母と妹達と皆で子供達のはしゃぐ笑顔に助けられた。家に帰ると、ひと部屋何も無かった。床に無数の傷。家具を持ち出す時に付けたものだ。私にワザと残して行ったように感じ、腹立たしかった。

ガランとした部屋に 子供達は、「すごいよ〜 声が響くぅぅぅ」「わぁ〜」っと叫んでは声の反響にはしゃいでいたのが印象的だった。

 別居が決まった時、お互いの両親に会って 今後のことや今までのことを話し合った。最初は、私の両親に…。母は、彼にこう言った。

「至らない娘で申し訳なかったですね…」と。

母の想いは、いかばかりか。そう母に言わせた私が悔しかった。辛かった。

次に夫の両親に…。義母は、孫に会えなくなるのね…と泣く。私と他人になってしまうのね…と泣く。義母は、こう私に言った。

「いつまでも ちかちゃんは家の嫁さんだから…」と。

義母は、私を本当に頼りにしてくれた。かわいがってくれた。大切にしてくれた。自分の息子よりも…。だから、この言葉を許そう。私は、この家の嫁から開放されるのだ。最後になるだろうこの家の仏壇に線香をあげて手を合わせた。

 

 夫は、離婚する事に最初から応じてはくれなかった。私も離婚は出来ないと思って(子供達のために!)我慢し続け、気が付くと夫も私も「無視」する事で ただこの家で生活していた。勿論、何度も話合い その度に私は「だまされた」。 夫と私の考え方、生き方は、何か大きな壁でさえぎられ お互いの気持ちが交わる事は無く平行線をたどるばかりだった。夫が私以上に幼かったこと、そのことを受け入れられなかった これが私の結論だ。そして、私は、その幼い子供(=夫)をかかえ途方に暮れてしまったのだと想う。私は、一人の女で 2児の母ではあるが 夫の母でもなく 家政婦でもなく 夫の家族とのカウンセラーでもなく 託児所の保母でもない。

その夫に 私は、こう言った。

「どうか、私を貴方から解放してください…」と

夫が「わかった」と言うまで 床にひれ伏ふし この言葉を言い続けた。

その日の記憶が少し曖昧だ。 この方法しか私には無いのだ…と自分に そして夫に懇願していたように想う。

 

 夫が引っ越してから 私はしばらくの間 異常だったのではないだろうか…と想う。

いや、ひれ伏した時からなのだろうか。ずっと、この悩みを抱えていた訳で 親友に話をして来た。支えてもらっていた。その親友に 夫の離婚承諾 別居の報告をした時も ただ、私は親友に語るだけで 感情が伴っていなかったように想う。

今だから そう確信する。 人生の大きな波を自ら選びつかんで 乗ったのに 自分の身体の一部が その波に乗ってきて居ない。全然、気が付かなかった…

「我に返る」と言うが 正にその我に返った時、私は 何と うつ病になっていた。

 

医者は、離婚がキッカケの一時的なうつ病…仰うつ でしょうと。自分の異常に気付き対処が早かったのが ラッキーだった。あの何とも言い難い「不安」「食欲不振」「無気力」…ニ度と味わいたくない。高校生が飲んでも良い程度の安定剤を処方され 驚いたのは、その薬を初めて飲んだ日 食べ物の味を感じ 咽を通ったことだった。私は、心を病んでいたのだと 自分で心療内科に駆け込んでおきながら その瞬間まで そう想ってはいなかったという事実に驚いた。

医者は、生活環境の大きな変化に心が付いて行かなかったので こんな症状出たのでしょうと言った。10年間という生活の重みを 思い知ったような気持ちだった。

今、こうして振り帰ると もっと前から私は、心の病を抱えて生活していたのだと良く分かる。そして持って産まれた「性格」が大きく影響していることも…

 

離婚する前から 自分はいつも「このままでは、病気になってしまう」と恐ろしかった。そして、離婚できたのに 心の病になるとは!全く 自分の弱さが腹立たしい。

年齢も一般的には、人生の中盤。健康診断でいろいろ再検査項目が出る。その度に、病気の恐怖感は強かった。特に今年は、乳癌の疑い。もしも…と考えたり調べたりしていると その恐怖感は、例えようが無いほど苦しいものだった。去年は、甲状腺腫瘍で おと年は胃のポリープで 何度か怖い思いで再検査したのだが 今回は、最高にと言って良いほど 絶望感が大きかった。でも、どの再検査も無事に通過できた。この数ヶ月 身体の病の疑いが晴れて行くと共に 私の心の病も良くなって行ったことは言うまでもないが…。

 

最初に記した月日からもお分かりのように、子供達にとっては楽しい・楽しい夏休み期間。「今日は、病院なんだ〜、お留守番よろしくね」と言って出かける。子供達は、「うん!」と元気良く、口うるさいママが居ないのを楽しむように お留守番してくれた。今、小学校3年生と1年生の兄弟だ。

夏休み後半になって、やっと自分に目処が立った頃、子供達の「海が見たい」との

リクエストで1泊旅行に行った。妹の子供と母も一緒に。子供達にとって 初めて見る海、磯の香り、砂浜 波の音 貝殻… そしてもう一つ、「陶芸体験」。宿泊先で陶芸ができるというので その宿を選んだ。母と私は、器を 子供達は 箸置きを作った。自宅に焼きあがった物が届くのは3ヶ月先だそうだ。とても楽しみだ。品物が届いたら、あの旅行のことを思い出して語り合おう。そして、いつの日か母子家庭になった最初の旅行だったのよ、と話してやろう。

 

子供達は、私のことを こう言う、口を揃えて…

「男らしいママ」と。

その通りよ。そして、これもいつの日か どうして男らしいママになったのかを語ってあげよう。もう、感じているよね?だって、パパの部屋が何も無くなった時 この部屋を自分の部屋にすると言って 兄弟ゲンカしたよね。じゃんけんで決めたよね。お兄ちゃんが勝ったね。自分でさっさと、教科書やランドセル、おもちゃを運び 弟がキョトンとしていたね。「出張っていつ帰ってくるのかな〜、困っちゃうな〜」って言う長男に 「長い出張だからね〜 当分は大丈夫じゃない?」と私は言った。

 

次男は、そんなある日こんなことをポツリと言った。

「ねぇ〜ママ、このままが良いな〜 ずっと」と。

このままって、何が?と尋ねると「ママもオレもずっとこのまま」

そっか、そうだね〜 と答えた。

これから後数年で 「ママ・ママ」と まとわり付く時期は終わる。この時期をう〜んと大切にしよう!といつも想う。いつの日か「クソババア」なんて言うのだろうな〜 今はそんな日を考えるのも楽しいくらいだ。この子らがこれからどんな人生を歩むのか? 私の願いは、良き大人の男性に出遭い 本物の男らしさ、男の知識、男の感性を知って欲しい。そして、強くたくましく人生を歩んで欲しい。

そして、ママを許して欲しい。

つい最近、子供らと一緒に元夫と4人で回転すし屋に食事に出かけた。この夏休みの話をする子供達。「陶芸をやったんだよ」 と自慢げに話す長男に 彼は

「3ヶ月も後にならないと 出来ないのかぁ〜 じゃあ、忘れちゃうね」と言った。

この人間は、父親なのか? 私にとっては、不愉快な言葉だった。自分が一生懸命作った物が 仕上がって出来てきたら、その記憶は思い出されるものではないのか?彼がこの家で生活していたことは、忘れたとしても…!

現に引っ越したあの日から 子供達と彼の関係は変わっていない。子供達を相手にしなかったのだから…。義母やその家族がこの家に来なくなっても 行かなくなっても 特に今は寂しそうな所は無い。子供達が「出汁」であったのだから…。兄弟で本当に仲良く遊ぶ。誰にも邪魔されたくないとでも 言っているように…。

遊んでいる二人の会話を聞いていると つい笑ってしまうことが多い。○○ごっこ中に出てくるママ役の言葉は、私にそっくり。反省させられる部分が大きいことも隠せない。ただ、お父さん役が出てこない「ごっこ遊び」に胸が痛む。

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   2003・9・6 

   読んでいただき ありがとうございました。

   母子家庭とはいえ、自分の両親との二世帯住宅。親不孝な娘を見守って

   くれている両親と姉妹に そして親友に 心の友に 感謝を込めて。