籠の中の鳥育ち



私の場合、結婚が生活の独立だった。
結婚まで水道光熱費等など生活の維持という事を考えた事はあったが、
実際には無縁だったのだ。
二十歳で就職し、初任給は現金だった記憶がある。以後は振込となる
給料。私の両親は、学業が大切というモットーで、アルバイトは2回しか
した事がないという当時珍しい学生だった。その事に対して疑問も
反発心も無かった。一つは郵便局の冬のバイト、もう一つは、お総菜屋
さんの売り子だった。
話しは戻るが初任給を袋ごと両親に渡し、その時月々3万円を「生活費」
として家に渡すという約束をした。それが 今思えば親が社会人として
認めてくれようとした形ばかりの証しだった。自分の意識は別として…

残りのお給料は、自分のおこづかい。勿論、貯蓄もしていたが。
就職した会社は当時でも異様なほど忙しい職場で 正に家には
「寝に帰るだけ」といった生活が始まった。
上司は厳しく、コピー一枚に「仕事」という観念を植え付ける教育だった。
ここで受けた教育は、どの会社に行っても恥ずかしくないと言える位
徹底したものだった。
その当時は、必死で泣きながら付いて行く事しか出来なかったほど
疑問という事すら思い浮かばないほど真面目に 必死に勤務したのだ。
会社の中でも私の配属先は厳しい課だった。女性ばかりの課でもあった。
同じ課の先輩方は、その厳しい仕事をこなし、「息抜き」するすべを知っていた。
気持ちを切り替え、遊ぶこと。会社の顔とその他の顔を持っていた。
その遊び(息抜き)の一つが「飲み会」である。
私の今までの(就職するまでの)生活は、学業中心。その中で「息抜き」
とは、クラブ活動と断言できるくらいであった。
危ない目に合うと言った事にも全くの無縁、更に喫茶店やゲームセンター
で遊ぶ事が「スリル」と感じていたほどだった。
バカが付くほど真面目な性格を持っていたのだ。

そのギャップを持ったまま、先輩達に夜の六本木へ飲みに連れて行って
もらったた日々は いまだに新鮮な記憶だ。
初めてオトナになった気分だった。
が、実際は飲みなれない私はいつも先輩のお世話になる事になる。
(飲みなれないと言うより、夜更かしする生活習慣が無かったのだ)
まず、寝てしまう。いかにガンガンと音楽が流れるような場所にいても
ある程度飲むと寝てしまったのだ。吐く事は無いが寝てしまう。
先輩達は何度私の両脇を支え六本木を歩いた事だろう。
例え起きていたとしても 先輩の家に泊まる事になって一番に寝るのは私。
雑魚寝状態の先輩の部屋でベッド(特等席!)ですやすや眠り、今思えば
手の掛かる子供を早く寝かしつけ、良かったねとばかりに先輩達は
その後の息抜きをする(子供を寝かせた後本当の宴が始まる)と言った
ような存在だったのだ。
ボーナスの月はほぼ毎日六本木へ行った。先輩も本当に面倒見が良かっ
た方々だ。気の毒に思うくらい私は先輩方に面倒をかけた。
長くなったが「生活」という意識も初任給の時の言葉のみのものだった。
給料の範囲でそれなりにお金を使うこと・・さして旅行にお金をかけるとか 
ブランドに夢中になるとか 衣服にこだわりを持つとか 何も無かった私は、
会社と自宅の往復に時間を取られ、余り学生時代と変わらない生活だ。
お昼代と夕食代、そしてタマの息抜きのお金が使い道だった。
当時の私を表現するならば、高校生が親の目を盗んで隠れてタバコを吸う
ような感覚の自分が居たのではなかったか。それも二十歳に!

自分がいかに世間知らずで幼く 自分を自分の鏡で見る事が無かったか!
等身大とは、どんな事かも知らずに生きてこれたのかと思う位自立する事に
無知な私。言わば、籠の中の鳥だった事を知ったのだ。
あえて付け足して言わせて頂きたい。籠の中の「美しい鳥」と!

籠の中の生活とは、全てと言って良いほど与えられることが当たり前。
誰もが最初は籠の中の鳥だとすると 普通はその籠が何で出来ていて
扉を開けるには何が必要で 外に出たらどうすれば良いとか、こうしたい
と言ったようなことを自分で気付き、自分でもがくようにその生活の
中で飛び立つ日を考えようとするものだ。そんな考えも思いつかないまま
扉を開けてもらい一人前という名札を付け、飛び立ったつもりになっていたのだ。

さて、籠の中の鳥は扉の開け方を知り飛び立って行ったのだが・・・
その籠へ戻り自らカギをかけて外へ出なくなってしまった時期があった。
野生の鳥になるには、余りにも遅く 抵抗力も知恵もなかったのだろう。
誰しも一度や二度 壁にぶち当たる事があるものだ。そんな時、自分を
責めたり、もがいたり、苦しんだりする。私はその事を「心の作業」と言っ
ている。
心の作業は、否定から始まり 否定を受け入れられるまでがワン・クールだ。
自分の場合、会社でも遊ぶ時でもいつも子供の様だった。一人では何も出来
ないことがイヤで 情けなくて自己嫌悪に陥った。バカな事をしてみないと
分からない自分もイヤだった。何をしても 自信がなかった。
憧れた人間像は、ただのマネであった。知ったかぶりをする生意気な子供。
大人になってからするバカな事は、取り返しがつかない事が多い。
そして自分の重大な勘違いに気付いたのだ。
大人扱いされず、一人では何も出来ないことががイヤだったのではなく、
その自分を認める事がイヤだったと言う事に!
背伸びをしている自分、等身大ではなかった自分を認めたくなかったのだ。
オメデタイという言葉は、私の為にある言葉である。

それを自分で受け入れるには、かなり時間がかかった。自律神経の病気に
なった私は、体と心のバランス治す為に籠の中に戻り、かつカギを掛けたのだ。

籠の中は、暖かく 心地よく やさしさで溢れていた。寝に帰るだけの場所
だった家で、今まで全く感じなかった事がどんどん見えて来たのもその頃だ。
仕事を辞め働く気力も体力も無い私は、家に居た。ずっと居た。両親は、
イヤな顔ひとつしなかった。私の為だけに昼ご飯を作ってくれた母。(昼間
家でブラブラしているのは、私だけだったのだ)
その頃から私という人間が歩き出したと言っても過言ではない。
自分を写す鏡は、自分で見ようとしなければ見えないという事に気付き始め
そして自分が自分である為にどうするかと言う事を自分で考え、答えを
出さなければいけないのだという当たり前の事をしみじみ考えたのである。
それが25歳の頃だった。

この類稀な育ちの私だが だからこそ それが個性になっている事もある。
私のにじみ出る「おおらかオーラ」は、伊達ではないのだ。
筋金入りとでも言おうか。
更に 私は気持ちに敏感である。自分が長い間自分を知らなかった分、
神様は私に水のような存在になるすべを与えてくれたと思っている。
水のようなと書いたのは水が姿・形を自由に変えられるように その場に
溶け込むという気持ちのありかただ。
多分ではあるが 私と関った方々はマイナスなイメージを持たないと思う。
無意識にそう溶け込んでしまうのである。
意識して今の自分があるとしたらそれは女優並みの演技であり、初めの
大抵の人が言う印象の
「いつもニコニコしていて怒った事がないようなチカ」は、私のごく自然な
振る舞いなのだ。
そう自然にぽわっと居るのが私。その外面を知った人が私の内面に案内
するとたんに不思議がるくらいのギャップがあるようだ。

その遅い自分の出発をした私が 結婚を機に生活の独立をした訳だ。
二十歳の時と同じように、失敗を繰り返し その都度多くの人に助けられ、
先に書いた「心の作業」を重ね 今に至っている。
以前歳に似合わず怖がりだと書いたが 精一杯慎重に自分を大切に
生きているのだ。
籠の中の鳥育ちを変えることは出来ないし、その中で「頑張る」しかないのだ。
人間変わる事が出来る部分はあっても 本質は変えられない。
それを受け入れ、その中であらゆる可能性を選び、試す。
抽象的な表現になってしまったが、私のライフスタイルなのだと思う。
しかも!かなり個性的だと思う。

*********************************
平成14年3月
私は子供だ!とハッキリ言える。自覚できた。
この歳で恥ずかしい事なのだが、「そうなんだから、仕方がない」(丹波哲郎風)