ひとりごと



私の日々は、こんな感じで始まる・・・
朝起きると、テーブルの上に「タバコ盆」(←タバコと灰皿と
煙草消し用の水のビンをお盆に乗せた物)、酒臭いコップが・・・
そう、子供達が眠ってから 楽しむお酒とタバコの時間の「跡」なのです。
そして、いつも先に寝ちまう私は、この片づけをしないのです。
一日の最後に寝る人が「タバコ盆」とコップを片付けてはくれないものか…
焼酎のボトルを定位置に戻してくれないものか…
テレビのリモコンを決めた場所に戻しておいてくれないものか…
なぜ?なぜなんだ!
全て私が片付ける、小さな事々

朝、新聞を見て 新聞入れに置いてくれないくれないものか…
せめて新聞をキチンとたたんでくれないものか…
洗濯物を出す時、靴下を脱いだカタチで出すのはやめてくれないものか…
ご馳走様の後、茶碗を流しに運んでくれないものか…
ああ、言い出すと限りない、小さな事々

自分の子供達なら年齢に応じて 生活のしつけとして教えられる
でも、育ってしまった人は・・・どうすることも出来ない。
なぜ?全て私がやらねば?女だから?妻だから?母だから?

違うのです!
こんな小さな事々を片付けるパワーなんて大した事はないのです。
なぜ?苛立つのか?
それは、「ありがとう」の気持ちが伝わらないからなのです。
当たり前になってしまっているのです。
夫婦、その根本は他人です。いつしか他人であった気持ちが馴れ合いに。
私は、貴方の家政婦じゃない!
でも、もしも 私が家政婦として働いていたなら
「いつも、すいませんね」とか「ありがとう」という言葉が出るはず。
家政婦の料金を支払っていたとしても、その家政婦さんが他人だから
主(あるじ)として労いの言葉をかけると思います。

食事もそうです。
マンネリになりがちな献立を駆使し 新しいおかずを出しても
いつものおかずでも 変わらない反応
いや、反応が無いのです。ただ、黙々と口に運ばれるだけ…
どんなに煮込んで作ったものも 下準備に手間がかかっても
ただ、処理される 心

掃除もそうです。
洗濯もそうです。
なぜ、ひとことが言えないのでしょうか?
ひとことが言えないのなら、私は、タダ働きの家政婦、
この事実が 朝目覚めた時からの苛立ちなのでしょう。

一緒に生活するゆえに体とは別に求める気持ちのキャッチボール
この小さな事々に言葉や気持ちを求めるのは、酷なことでしょうか?
育児に参加しない彼を責めるのは、酷なんでしょうか?
仕事も忙しいでしょう、疲れるでしょう、一人でぼーっとしたいでしょう
でも、それは私も同じなのです。
家庭の中で、仕事に疲れている旦那様。妻としては、いろいろなサポートを
してきたのです。それだから、ありがとうとひとこと欲しいじゃないですか!
小さな気遣いが欲しいじゃないですか!

「彼は、分かってくれている」 この安心感 共鳴感が欲しいのです。

その共鳴が無いのですから、タダ働きの家政婦としては
ひとりごとをつぶやき、そこらの塵の様にどんどん増えます。
脱いだ靴に少し手をかけて、揃えてくれないものか…
カップラーメンを食って流しに持って行けるのに、
カップを不燃物のゴミ袋に入れてくれないものか…
車をキレイに掃除してくれないものか…
お気に入りのシャツばかり着て
クタクタになっても着るのはやめてくれないものか…
そう、塵も積もれば山となる です。
小さなすれ違いが、何年も積み重なって 私の心を閉ざしていったのです。
体を閉ざしていったのです。諦めてしまったのです。

出遭った頃は、ひとつ、ひとつに照れくさそうに言葉をくれたのに
手紙をくれたのに 「過去」なんですね。

私は、貴方の母ではない!家政婦ではない!
長い事一緒に生活するから、欲しい言葉 やさしい気持ち
心のキャッチボール
違う環境で育って、生活が始まったのですから 生活の違いはあります。
でも、気遣い・心遣いは、どのように育ったとしても相手を
思いやる気持ちです。
そして歩みよりの気持ちです。

皆さん 心のキャッチボールしてますか?
キャッチボールできてますか?

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ひとりごと(2001・6)