自分の性を大切に



 道を歩いていて、お茶を飲んでいて、音楽を聴いていて性を考え、そして感じるこ
とがありますか?考えるひとは考える、しかし私たちほどそれを考えるものはいない
かもしれない。

 私が性のことを真剣に悩んだのは中学生のときかもしれない。多分そのときは『性
同一性障害』に近いものがあっただろう。自分を受け入れられず、周りは異性を意識
し始める年頃だ。その年で出口を見いだすにはあまりにも大きすぎる問題だ。しかし
どうにもならないことというのが事を動かすことがある。どうにもならないのなら、
そのまま、あるいはどうにか工夫して自分を受け入れ生きていかなければならないの
である。

 私たちの世界の中にも自分を受け入れられない人というのがたくさんいる。不思議
な話、その世界に足を突っ込んでいるにも関わらず「自分はゲイではない」というの
だ。私が夜のお仕事をしていたとき少しだけいっしょに働いていた『くるみちゃん』
という子がいた。彼もそうだった。でも私は言った。「ねえ、くるみ。あんたじゃぁ
誰が好きなの?」くるみは「わからない・・・」「男としたんでしょう?」「うん・
・・」「いつも好きな人で思い浮かべるのは誰??」「・・・・・」くるみは絶句し
てしまう。いつ話しても決してくるみは認めようとはしなかった。多分恐ろしかった
のだろう、自分がはっきりしてしまうのが・・・

 しかし人は自分を好きにならなければならない。それは男であろうが女だろうがゲ
イであろうが。だが同性愛者が受け入れるというのはまた少し違ってくる。普通の男
なら、男として生まれ男の感覚が自然に養われて、自然に好きな女ができる。その時
の流れを受け止めれば良いが、ゲイはその度毎にある局面と接しなければならない。
好きな人ができても、1%も愛し合える可能性がないとわかっていてもどうしようも
ないのだ。泣いて酒でも飲んでやり過ごしていくしか・・・

 だから自分を受け入れていくしかないこともある。先ほど話したくるみは、自分が
どうしても受け入れられなくて、夜の仕事もやめ田舎へと帰っていった。でもそんな
の一時のまやかしでしかないと私は思う。どんなに自分を騙そうとしたって残酷にも
答えは突きつけられるものだ。自分が違う違うと一生懸命に否定すればするほど色濃
く鮮明に。その後はしらないが、多分くるみはこの世界に帰ってきていることだろう。
どんなに認めたくなかろうがそれが現実なのだ。

 じゃあ私はどうなのだろう。確かに昔は夜な夜なむせびなくこともあった。でも現
在私の性別は“ゲイ”だと思っている。普通の男として生まれたなら知り合えない人
がいた。女として性を受けたなら、話せないことがあったと思う。その中立の立場を
認識しているからこそ可能にしていることもあると思うのだ。この間何かのテレビで
見ていたのだが、ベトナムでは差別がないのだという。そしてゲイは男女の心が宿る
神の声を聞くものとして霊媒師になっていたりして立派に存在しているのだそうだ。
先のことはわからないが、今は自分をちゃんと受け入れているつもりだ。また迷えば
そのときそのときで考えていこうと思う。それに自分が迷えば誰かがきちんと迷い道
から抜け出させてくれるものだと思う。必ず人との係わり合いの中でも受け入れさせ
てくれるのだという確信があるのだ。

ゲイばかりでなく女の人も男の人も自分に与えられた性というのを今一度考えてみて
欲しいなと思う。普段なら何気なく通り過ぎてしまっていることや何も思わないこと
も、別の視点で捕らえて見ればまた違ったフレッシュな自分に出会えるかもしれない。
私が普段からうらやましいと思うことやできないこと、それらを難なくこなしている
人たちに対してうらやましいと感じることを、改めて実感してもらいたい。それが実
感できたら教えて!そうしたら負けず嫌いのこの私がさらに喜びを感じるように対抗
するから!(笑)