ペットセメタリー王国





 動物は愛らしくてかわいいものだ。今現在、ウサギ小屋に住んでいる分際で、こう言うのも生意気だが動物が欲しいのだ。そして、共に素敵な日々を分かち合いたいのだ。外を歩いている時も、よく彼らにお目にかかる。かっぱらおうと思うくらい愛らしいのだ。でも私には、このウサギ小屋のせいと、あと心理的な面で飼おうと思う心を妨げる要因がある。

 それは、今からさかのぼること十数年前、小学生の時だ。その当時から、動物熱はオーバーヒートしていた。いつでも乱れ買い爆発準備OKといった感じ。頻繁にペットショップに通い、いつも何かしら買ってきて、そのペットショップでは超常連だった。だから店のオヤジは、この私を幼いガキながらも聖徳太子にさえ見えていたはずだ。(この当時は、福沢諭吉ではなく聖徳太子だったのだ。)

 しかし、私のムツゴロウ王国計画は暗礁に乗り上げていた。ちょくちょく動物を買っていたにもかかわらず、我が家は動物王国にはならなかったのだ。増えていったのは、ベランダの前の花壇のすみにある“ペットセメタリー”だった。信じられない数だが、計五十数体が埋葬されている。私の居住するエリアでは最大規模と推測され、市に認可を申請しなければいけないほどの、巨大ペット霊園だった。そんな私の哀愁劇をお聞かせしたいと思う。

 先ずは小鳥に始まった。最初にいた鳥たちはセキセイインコ七匹で、名はピッチとジュンとピーコとピーちゃん、チーちゃんにキーちゃんチュンコだ。

 この七羽は、寒さのあまり凍死した。それから一週間、喪も明けないうちに今度はスリムなリンちゃんを買ってきた。インコのくせにあまり私になつかなかったため、あまりかまわなかったら、えさまでかまうのも忘れて、いつの間にか餓死していた。 これではあまりにも不憫だと思い、償いのために初めてオカメインコなるものを、8千7百円という大金をはたいて買ってきた。まだ、赤ん坊だったその小鳥を前の死んだ鳥かごに入れ、私が大人のエサを出すのを忘れていたため、それを誤って食べたらしく、のどを詰まらせて翌日死亡していた。

 そして、まだ名もつかぬうちにこの世を去ってしまったその鳥を、オカメちゃんとつぶやき、泣きながら葬った。そしてそれから「オカメちゃん、ゴメン、ゴメン…」と言いながら、再びペットショップへ向かい、今度は大人のえさを食べる、ちょっと大きくなった鳥を買い求めた。その鳥は、大人にもかかわらず即日私になついた。とても愛らしかった。だから私も、自由に飛ばせておいた。名前も二代目ピーちゃんということに決定した。そのピーちゃんの見事な飛びっぷりをしばし眺めていたが、いつしか見失った。そして、あれ、ぴーちゃんどこ行ったんだろうとソファーに腰を下ろした瞬間「ビーッ」と悲痛な叫び声があがった。私のお尻をあげてみるとそこには体を丸めているピーちゃんがいるではないか。もうびっくりして、成す術が無かった。それからピーちゃんは、30分ほど苦しそうな鳴き声を発していたが、そこで力尽きたのだ。私が圧死させてしまったのだ。この時ばかりは特に、悲しさとくやしさで号泣した。わたしは、その時点でもう鳥を飼うのはよそうと決意した。

 それから、しばらく生き物のことを忘れるようにしていたが、今度は“金魚”を勝った。結論から申し上げると、三十数匹が天に召されることになった。それも、大半が私の不注意や、無謀な行動によって死へ導いたのだ。でも金魚は強かった。ちょっとやそっとじゃ死ななかった。2週間えさをやらなくても元気に泳ぎまわっていた。なるほどさすがだと思い、再び目をやると、明らかに2匹の姿が無くなっていた。よーく眺めてみると、空気のぶくぶくのリズムに合わせて、犠牲になった出目金のしっぽが揺らめいていた。あいつら共食いしたのだ。そして冬に突入した。自分の部屋に置いてあった水槽は、あまりの寒さに中の水が凍っていた。もうだめかと思いつつ、熱湯を入れ氷を解かした。

 すると、何事も無かったの様に平然とした面持ちで、いつもの金魚の顔で活動しだした。そう思ったのもつかの間、あとはは言わずとも分かるであろう、ちょっと日がたった頃には全滅だ。 私が近くの高校の池から獲ってきた、フナとタニシと追加でペットショップから購入してきた、鯉と熱帯魚を一緒に入れたためだ。

 また月日が過ぎ、初夏が訪れ祭りにくりだした。そこで売られていたひよこが目に入った途端、即購入を決めた。一羽はピンクのカラーひよこ、もう一羽はスペアのための普通のひよこだ。今度こそはと思い、そこで一緒に売られていた一つ100円のえさを3つ買い求め、家へ持ちかえり無事なのを確認し、眠りについた。そして翌朝、目を覚ましたらピンクちゃんが横たわり動かなくなっていた。案の定、みんなと同じ運命だった。その数時間後には、普通ちゃんも息絶えていた。

 やはり、私には生き物を育てる能力が身についていないのかと思い、重い足取りでペットショップを覗いてみると、何とかわいいハムスターがたくさんお手頃価格で販売しているではないか。980円というスーパーで軽くお買い物した時より、安くつく位の価格だ。

 様々な視点で捕らえても、とてもリーズナブルなペットと言えよう。そして確実に私の瞳には、神が映し出されていた。前述で書き記した、“不思議台湾”でもお話したが、実に私は神とは、疎遠と言うよりは無縁に近いだろう。でもその時の神は、明らかに中年の日本人男性と思われ、肩ちょっと下あたりまでの、みつあみにジーンズをはいている少し安っぽい神だったが、私には「今度こそ頑張りなさい」、そう言っているように思えた。そして、後ろのガラスに映ったただのジジイかもしれない神の言葉を信じ、わたしは、ガラがくっきりしていてスリムなハムスターを手に取り、買ってしまった。早速家に持ち帰り名前を考えた。そしてようやく決定したのは「ミッキー」という名だった。そのミッキーの思い出を書きたいのだが、思い出が無いのだ。1ヶ月が過ぎた時には既に死亡していた。「しまった!半月過ぎたあたりからえさやるの忘れていた」。そして、懲りもせずミッキーとの無い思い出を胸に、ミッキー二世を買ってきた。

 「ああ、ミッキー2世、今度こそちゃんと面倒見るよ」と誓い、しばらく観察の日々が続いた。でも、それで分かったのだがハムスターという生き物は、その頃の私にとって実に面白味の無い動物だ。人間に愛想を振りまくわけでない。いつもと違うエサを与えれば、思い切りほうぶくろにため込むだけだし、カラカラと回る遊びものの中廻していても、別に楽しそうでもなく、苦しそうでもない。ただいつもと変わらぬ無表情で回し続けている。更に、昼間は巣から出てこないし、夜、人が寝ようとすればカラカラと廻し出すし、本当にペットという感覚が無かった。

 それから、また月日は流れていった或る日、ハッと何かが頭をよぎった。「そう言えば、私何かしなければいけないことがあるんじゃないか。そう、それは私の部屋でだ。何だろう、何かがあるはずだ。何か忘れていること、そう大事な事がある?……!!」 アッ!と思った瞬間、血の気が引くのを感じた。私がミッキー二世を買ってから、7ヶ月が経っていた。急いで部屋に置いてある、タオルがかぶったかごを見てみると、巣にはいない。下を見て、声を発する機能がマヒした。下で、色は腐った烏龍茶のような茶褐色に変色しており、厚さ1cmくらいのモモンガの様に、まるでのされたみたいに死んでいた。2〜3ヶ月前にはこの世を去ったのだろう。その埋葬は友人に頼んだ。カゴごと深いところへ埋めてもらった。

 それ以降、生き物は飼っていない。あまりの己のおろかさに、見る気もしなくなった。今だから言えるのだが、今も時々思い出す時がある。その度にこの世を去ったペット達に謝っている。謝っても謝りきれないほどなのだ。あの出来事を自分に置き換えてみたら、と思うと恐ろしくて考えたくもない。でも、この年になってペットを飼う楽しさや、大変さが分かるのだ。あまりにも気付くのが遅すぎると思うのだが…。だから、今度は本当の償いのためにペットを飼いたいのだ。中途半端な気持ちから起こるそれとは違う。だから動物が欲しいのだ。そしてこれからも謝り続けたいのだ

 あの頃の人間の心が備わっていたかった、私に飼われたあまりにも惨めで
かわいそうな生き物たちに。

                                                      (p) 1994.3