クソミソアッソーマンの悲劇





 最近、幼少の頃の思い出が頭をよぎって離れない。なぜなのだろう。普段、絶対思い出さないことや、思い出せないくらい細かなことが次々頭の中にでてくる。例えば、小学校3年の夏休みの宿題をしていたときに飲んでいたスプライトの氷の溶け具合と量をに記憶しているのだ。その時、飲んでいたグラスは小学校4年生のときに母が台所でぶつけて割ったのだ。そして、そのグラスのは小学校3年生の春にコーラを2本(当時のコーラは1g入の瓶)買ったら、酒屋さんがグラスも2個つけてくれたのだ。

 そんなことさえ記憶しているのだ。超常現象と同じくらい恐ろしいと感じる。その克明に記憶している思い出の中でも、彼女の記憶がに胸にちらつくのだ。

 その娘は、古川 由美子という名前なのだが、通称“クソミソアッソーマン”と呼ばれていたのだ。別に見た目がクソミソアッソーマンという感はない。それどころか、容姿は中の上といったあたりで、今で言えば安達 裕実にそっくりで目もぱっちりし、まつげは長いし悪い顔であるわけがない。まあ強いてあげれば、結構ダサい娘なのだ。

 あの当時みんながはかないイモジャ(ダサダサのジャージのことを当時こう呼んでいた)をはいていた。赤い色のジャージの横に太い白の二本線、上下ともに毛玉がいたるところに5つくらいのエリアに分かれて無数に付着していた。そして何となく原始人っぽい感じだった。というのは、髪の毛がお尻くらいまであったのだが、それが何年もカットしていない感じで不揃いに伸びている日本的に云えば“ザンバラ頭”という表現が一番近いだろう。加えて、入浴も1週間に1〜2回らしいのだ。そのせいだろうか、顔がまだらに黒かったのを記憶している。

 ここまで言っておいて、強いてあげるもくそも無いものだ。ここまで言ったが見た目はホントに可愛い子だった。では、なぜこう呼ばれたのかといえばそれなりに理由があるのだ。
それは小学校5年生のある日、前に登場した私の友達だった女“くーやん”と一緒に遊ん
でいた。ゴム飛びを家の前の道路でやっていたとき、クソミソが声をかけてきたのだ。
いっしょに遊ぼうと、それはしおらしく、はにかみながら近づいてきたのだ。

 クソミソは私たちより一つ歳が下だった。だからくーやんも私も面倒をよく見、
可愛がっていたものだ。そもそもそれが大きな間違いだったのだ。
その事が彼女をつけあがらせ、野心に火をつけたのだ。

 クソミソはある日から本性をあらわすようになってきた。
例えばゴム飛びをやっていて、自分が飛べない高さにくると、歳が下なのを良い事にハンデなどと言いながら急に2段階低くさせたり、鬼ごっこをやっていてなるべく鬼にならないように、ジャンケンのおそだしをしたり、それで、もし鬼になんかなったりしたものなら即家に帰ったりしたものだ。これにはさすがのくーやんでさえもお当て上げであった。
更には、けんかもしょっちゅう仕掛けてきて、口調もひどいものだった。クソミソのそういう暴言は彼女の家の近くを通りかかっても、いつも誰かしらとやりあっていた。

 そして、私たちや私たちの友達、クソミソの友達や親兄弟にも共通したが“あっそー!”だったのだ。だからけんかのときに何を言っても「あっそー あっそー!だから!どーしたの!あっそー!あっそー!」とこのような調子なのだ。(その時のせいなのか、大人になった今の私もこの゛あっそー”という言葉に妙に敏感になっていたりする。)

 このような事がしばらく続いていたある日、やはりこの日も別な友達とけんかしていた。
すると、誰かが“クソミソアッソーマン!”と叫んだ。すると仲間がみんなで一斉に
“クソミソアッソーマン”と言い出した。それがいつの間にかその呼称が広まって、
皆がそう称するようになっていった。

 それがクソミソアッソーマンの名前の由来だ。くーやんも、それがとても気に入っていて、ずっと「クソミソアッソーマン」と、けんかの度に20回くらいは呼んでいた。
そして、それだけでは飽き足らず、彼女のまねをして「あっそー!あっそー!あっそー!…」と延々と罵り合っていた。そして、エスカレートするけんかでおとなしかった私もとても小憎らしい彼女にむかってやはりクソミソと呼んでいた。そうこうしているうちに、彼女は何と30人くらいに、このとぼけたニックネームで呼ばれるくらいになっていた。
そして、彼女はいつも私たちや他の人に向かって、「いやー!どうして私がクソミソアッソーマンなのー?!どーしてクソミソアッソマンって呼ばれなきゃなんないのー!!」とよく言っていたが、私も同時にそう思っていた。どうして“マン”なのだろう、どうして女の子なのにマンなのだろう。どんなにブスでも、どんなに年寄りでもウーマン、仕事が出来る女性の事を”キャリアウーマン”と呼ぶ。それなのに、彼女は運悪く最初にそう呼んだ男のせいで“マン”なのである。
この時点で、ウーマンにもなれなかった彼女に、幸薄い人生に対しての同情と
将来の運命の不安を感じた。

 しかし、何といっても彼女が悪いのである。もう少し、人に対しての思いやりを持ち、調和を保つ事を学ぶべきであった。だが、彼女にも同情の余地がある。それは彼女の両親だ。

 彼女の親はいい加減なところのある親だ。父親と母親は休みの日になると2人そろってパチンコに行くのだ。そして、平日も母親は夕方までパチンコだ。1度だけ彼女の家に入った事があるのだが、もう足の踏み場も無く、台所はドロドロで洗い物の山。そしてご飯も適当な惣菜や、インスタントラーメンで済ませることも珍しくないというのだ。

 そんな家事をまったくしない母親と、何も気にせず仕事から帰ってきたら、ぐうたらして酒ばかり渇食らっているような父親なのだ。子供のことなど気にならない親なのだ。その証拠に、彼女には妹がいるのだが、面倒を見ていたのはほとんど彼女だ。

 いつだったか、外で妹の髪の毛を切っている姿を見たこともある。髪の毛を切るお金もくれないのかな、と私は胸を痛めていたことを思い出していた。家のお金はその日のパチンコの軍資金なのだ。彼女の、不揃いでお尻まで伸びている髪の毛の本当の意味は知らないが、妹の髪の毛を切ってあげている姿を見たとき、彼女の見方が少し変わって行くのを感じていた。

 少なくとも、それまでの憎らしさや意地悪心が消えていったのはたしかである。それ以降も、彼女と仲良くなることは小学生のうちはなかった。しかし、くーやん達といっしょにけんかに加勢することもなかった。それに、このけんかも遊びに思えてきたのだ。それは私だけではなく、みんながそう感じ始めていたのではないかと思った。けんかの言い方に愛情がある言葉なのだ。やはり彼女が悪いことが多いのだが、こういうような関係も悪いものではないと思った。彼女は彼女で、日頃溜まったストレスを発散しているように見受けられることもあるし、私の友達は、言葉のあやとりをして、日頃負けるものかと研究して支えになっているようだし、私は私で、その光景を眺めながらそれなりに楽しんでいるフシがある。
 結局、それはそれで成り立っている関係なのだ。

 そのあと、私は小学校を卒業して、彼女の家の方に行くこともほとんどなくなった。

 だが、彼女が中学1年になったとき再び近くのスーパーでばったり出会った。彼女は、大人っぽくなっていて、小学校のときより更にきれいになっていた。尚、驚いたのは彼女がとても性格が良くなっていたのだ。落ち着いた物腰と素敵な笑顔で「わたる君、元気だった? しばらく見なかったね」、と飾ることなく声をかけてきた。私が小学生のときの話をすると、恥ずかしそうに反省をしていた。何年か経って彼女も大人になったのだろう。

 その時、なぜかあの時のことが懐かしくなった。彼女にその面影が無くなくと、反対に求めてしまうのが人間なのだ。淋しさが胸に広がって、何だか取り残された気がする。

 私は小学生の頃を思い出して、ためらうこと無く「クソミソアッソーマン!」と呼んでみた。すると彼女は、笑いながらも落ち着いた感じで、「もう、何言ってるの 懐かしい」とあっさり切り換えされてしまった。あーつまんないつまんないと思いながら、別れ際に心の中で、でかい声で“クソミソアッソーマーーン!”と叫んだ後、何食わぬ顔で「じゃあねバイバイ」と声をかけ別れた。

 やっぱりクソミソアッソーマンじゃないとね、あんたは。その後は、一度もクソミソアッソーマンにあってないが、大人になったクソミソアッソーマンにもぜひ会ってみたいと思っていた。その時会っても、やはり私はクソミソアッソーマンと思うだろう。それは、親が子供のことをいつまでも子供と思うのといっしょで、私の中では、いつまでもクソミソアッソーマンなのだ。

 ところで、私は何回クソミソアッソーマンと書いたのだろう。しつこすぎた気もするが、しょうがない。それ以外の彼女の呼び方をしたことが無いのだ。

 私の精一杯のエールを送らせてくれ。“クソミソアッソーマンに幸あれ!”

(p) 1993.12