友情




 私にも友達はいる。友情というものを、昔から日頃考えていた。

さまざまなタイプがあるが、人にうんうんそうそうと言って同意を与え、共に同意を求めるのが友情なのか?時々外で会って、お酒などを飲みながら人生などについて語り合うことか。お金や品物など、形あるものによって形成されているもの、はたまた言葉など何も要らず、困ったときに手を差し伸べてくれるのが友情なのか!?

 まあ、どれをとってもそれぞれの人には、友情であることに間違いはないと思うが、私の友情とは人と少し違うかもしれない。 少なくとも、人間の心の奥底を探っていけば、だれしもが持っているものではないかと感じている。 その友情といえば、お酒を飲みに行って相談事を聞いたり話したり、助けてあげたり助けられたり、友人の家に行っては、さまざまな人間模様を話し込んでみたり、それについての見解を議論したりする。 

 ここまでは対して周りの人たちとさほど変わらない気がするが、問題なのはそれに伴っての心情にあると考えている。 自ら言うのも間が抜けていて悔しいのだが、私は人“三”倍思いやりがあり、優しい性格だと思い込んでいる。友をいたわり友好を深めていきたいと考える。が同時に友達を落とし入れようと、にこやかな顔をしながら企んでいることがある。

 何も、いつもそんなことを思っているわけではない。友が成功したり、楽しそうな姿を見ることは喜ばしいことではあるのだが、それとはうらはらに、憎らしいと思う心が内臓いっぱいに広がって自分でも制御できなくなることがある。友人がなにか事に失敗すると、「かわいそうねー」・・・そしてざまあみろと言ってしまうのだ。(もちろん心の中でだ) 特に、恋の話となるとである。淡々と話しをしている姿を見ているとかわいらしいな、とは思うが、何か人に押しつけがましく聞こえるときがある。

 あの人はこーなの、それでこの間こーしたの。とか自分には何の情報もないローカルな話に、そうした二重人格的な面が現れてくることが多い。いつもそう思っているわけではないのだ。何かしらのバイオリズムで目覚めてしまうのであって、性格から現れてくるものではないことだけは補足したい。

 自分でもなんて無情な人間なのだろうと思うが、別にやきもちを焼いているわけでもない。何がそうさせるのかは、どんなに研究しでも分からないのである。更に付け加えたいのが、そうした友らとは今でも友情が続いているということだけは言わせてもらいたい。

 これを読んでいる第三者の方もなんと意地が悪く、恐い人間だと思うかもしれないが、でも言い聞かせてみてください。だれしもが持っている、二面性がないかどうかを。

   PS. 最後に付け加えたいのが、いまはそのような現象が現れてくることは少なくなった。くどいようだが・・・