くーやん島漂流記



   小学校時代、いや正確に言えば幼稚園時代からの友達だった女がいた。

その子は“くーやん”と呼ばれていた。本名工藤恵子というのだ。今でこそ言える事だが、その娘に多少なりとも恨みがあった。 皆さん分かるであろうか。それくらいの歳の頃というのは、その子に何か魅力があるわけでなく、お金を持っているわけでもない。得てして、それほどの人気者でもない。でも、絶対的な逆らえない何かを持っていて、敵に回せば後で何こそ言われ吊し上げられる分からない、そういう陰険娘を。

 その女に私は8年間引きずりまわされたのだ。事の始まりは幼稚園の時同じ組になったのが間違いだった。優しい円山先生になってほっとしていたら、三日もたたないうちに、気安く私に声をかけてきて、図々しい兆候は当初からあったのだ。「ねえーきよーキキララの鉛筆ちょーだーい」私は、借りてきた猫を更にたらい回しにされたような性格だった為、おいそれと返事もしないうちに、勝手に手が出てくれてやった。

 くーやんはわがままだった。欲しいと思ったものは、絶対手に入れるタイプだ。思い起こしながら、今までくーやんにおごったり、あげたりしたものの合計金額をまとめてみた。全部で20万以上は確実におごっているはずだ。

 くーやんの口癖は今も耳から離れない。私に会うと、必ず「きーよー、恵子おなかすいたなーなんかおぐってー!」決まってそう言う。その当時、“おぐって”という常用語としてもまかり通らない、間違えたすっとんきょうで下品な言葉が、当時とてつもなく腹立たしかった。くーやんはなおも私に金品を要求してきた。その品物を、これからダイジェストでご紹介しよう。

 先ずは食べ物だ。ほとんどの金額を食べ物に費やしたと言っても過言ではないだろう。くーやんは、考えられないほどの食いしん坊だ。家では、COOPの128円のビスケットしか与えてもらってなかったので、私に出会った事で食いしん坊に拍車がかかったのだろう。遠足の前日、一緒におやつを買いに行った時も、私に遠足分のおやつを買わせ、くーやんは余ったお金で自分の今食べる分のおやつを買った。そういう女だ。話は先に進め、お次はシールだ。

 昔、シールばくりというのが流行った。補足しておくが、シールばくりの“ばくり”は、北海道弁で“交換する”と言う意味だ。小学校4.5.6年生の時定期的に行っていた遊びだ。

 くーやんはケチンボで、私が欲しいと思うシールはほとんど一つもだめで、「だめー ここのページは交換しないページなの このページだったらいいよ」、とそこのページを開いてみせた。そのページは、車で言えばスクラップ工場と同じに等しかった。変な知らないキャラクターの絵や、昔子供がいたずらして冷蔵庫に貼ってあったような花柄のシールや、あげくの果ては、近くの道ばたの電柱に貼ってあったやつをはがし、裏にセロテープでくつけてあるシールが、ここ狭しとばかりに貼り付けられていた。

 結局、私はその電柱シールをくーやんに推奨され、無理矢理私に交換させた。そして、すかさずくーやんは私のシール帳をぶんどり「恵子これね」と言い、私のお気に入りのキラキラした高いシールを着服した。私も「ダメーそれ大切にしてるんだからー」、と反撃したがくーやんの事だ。「やー どーしてダメッて言うのー。恵子だってシールあげたんだからばくるの当然でしょー。キヨってケチくさいねー」、といった。

 わー世の中こんなもんかーと思い、脱力感でしばらく開いた口がふさがらず、くーやん家のケチケチ菌を胸いっぱいに吸い込んでしまった。 まだ他にある。着せ替え人形が流行った時も、昔くさい絵で片足が一本ちぎれた奇怪な人形と、私の買ったばかりのモデルのきれいな着せ替え人形と交換され、持ち去られた。更に、ミンキーモモというアニメが流行った時に買った「ミンキーモモステッキ」も、「ねーえーキーヨー。二人で同じステッキ持って、魔法使えたらきっと楽しいだろうねー」などと、ガキながらに手いっぱい腹黒い事を私に告げ、購入させることをうながし、まんまと手に入れたいきさつもあったのだ。それに私が逆らえば、小学生独特の針千本が待っているのだ。 他にも書きたいことが山ほどあるのだが、その事柄や詳細をお話すれば、小説一冊分にはなると思うのでやめておく。

 結論を言えば、何年もそのくり返しだったのだ。”くーやん島”という、小悪魔島の周りの海で、漂流していただけなのだ。その頃の私に、それを振り切るための“オール”があれば、もっと何かが変わっていたはずだ。私だけでなく、くーやんにも世の中そんな甘いことばかりではないと分かってもらえ好結果を招いたかもしれない。元はといえば、私がくーやんをそんな風にどんどん悪くさせてしまったのかも知れない。 そう思うと、自分のふがいの無さに今でも腹が立ってくる。

 でもそれは、船とオールの一式で運転するための準備期間であったと、今はそう考えるようにしている。

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