ごっこ



 子供の頃というのは、ああどうして夢や想像に進入するのが上手なのだろうか。 
この年になった今の私も夢もうつつも一色たにし楽しめるタイプだが、子供のとき
はもっと幻想的に見えていたはずだ。

 あれは小学校6年生のときだっただろうか。そのくらいの頃は、いろいろな遊びを積
極的に行っていた時期だ。学校から帰ると真っ先に友人6,7人を呼び、日が暮れるまで
遊びっぱなしだった。昔の私の実家は、アパートを貸していた大家だった。そのため、
空いていた部屋を自由に使わせてもらっていた。ちょうど自宅の二階にある真ん中の部
屋は、一年ほど誰も住む者も無かったので、われわれの基地と化していた。5号室では
さまざまな遊びを繰り広げた空間だった。 現在の子は、さほど縁のない遊びになって
しまったのかもしれないが、当時、”何とかごっこ”というプレイが主流だった。 

その中でも、我々の原点とされていたのが、”ルパン三世ごっこ”だった。これほど完璧
なアイテムやシーンがそろっているアニメは、昨今なかなか見当たらないもの
だ。拳銃、マシンガンや刀などが使用され、永遠のヒーローが存在し、笑いあり涙あり
の変化に富んだシーン。ヘリコプターや飛行機が空を乱れ舞い、外国の有名な城や美術
館を狙うなどの、スリリングかつファンタスティックなドラマ展開で世の子供らを魅了
させたアニメ番組のひとつだった。

これほどの厳しい子供界の条件を楽々とパスし、感銘を受けさせたほどのものだ。 お分
かりいただけるであろう、当時の遊びの七割方がルパン三世ごっこだったということが。
 そのルパン三世ごっこの中の配役は、ほとんど私が決定を下した。
それは、私の家族の持ち物であるアパートの一室の部屋を使用し、遊技場として遊ばせ
てやってるんだからという大家の権限をフルに乱用し、ゆだねさせるという、小学生らし
からぬ行動だった。だからその中で、必ずルパンには一番良い男を選抜し、一番図体の
大きい私が一番小柄な不二子の役を演じ、二番目、三番目に良い男がジゲンとゴエモン
の役につけさせる。そして、その中で嫌いな子は敵に回し、特に嫌いな子は”銭形警部”
の配役を与えた。

シーンはただ陣地を決め、当時流行っていた銀玉鉄砲で打ち合いといった単純なものだが、そ
こは子供、自分のもらった役回りになりきっているものだ。たんすや布団などで覆って、
敵と味方、各々に別れ後方から攻撃する。そこで私はわざと前へ出て行き、銀玉鉄砲で
足を打たれる。 そしてまた、わざわざ陣地へ戻り倒れこむ。即座に、ルパ〜〜
ンと一声発し顔を右に向けうなだれる。するとやはり子供は子供、一番良い男であるルパ
ンが駆け寄ってきて、私を抱きかかえて起こし「不二子! 大丈夫か!?」それも
全て計算済みのことだ。 すかさず私は、「もうだめみたい」、と最後の力を振り絞る
かのごとく、声を発しクタッと息絶えてしまう。そこでルパンは「不二子―!!」
悲痛な叫び声、加えて私を強く抱きしめる。

1・2・3.。 3秒きつく抱きしめれば生き返ることになっている。これも、
半ば私が強制的に加えさせた規定だった。 そして、何事もなかったの様に「ル
パン、さあ戦うわよ」と先程以上に張り切って、敵の陣地を攻撃し始める。

何故かその繰り返しだ。だが、そのような日々がしばらく続いていたある日、いつの間
にか、共演するルパン役の子を愛するようになっていた自分に気づいた。その愛するル
パンのために、幾度となく卑怯な手を使ってきた。 銀玉鉄砲で打ち合いのさなか、密
かに隠し持っていたプラスチック弾(通称BB弾という)のガンを取り出し、銭形警部に
向けて発砲し、殺っちまうことが私の彼に対する愛の表現だった。 
当然銭形はそうとうもがいていたのは言うまでもない。その心通じてか、
いつからかルパンも私を守ることに、一生懸命になっていた。

やはり、はじめに申し上げた通り子供というのはすごいものだ。遊びと現実の世界も区
別がつかなくなる。そんな気もないのに、いつの間にかガラッとムードが変わってしま
うくらいに…。 でもそれは、子供の時にはとても必要なことなのかもしれない。 そ
の何とかごっこで、何かを演じることによって、人や生き物の気持ち、そして感情をも
知らず知らずのうちにつかみ取っているのかもしれない。そうすることによって実際に
なりたいものや、なれないものの姿を自分に映しているのだろう。

そんな少年時代を過ごした私は、今も変わり映えしない大人だ。でもそんな時代を過ご
したからこそ、今の私がこうして作られてきているのだ。そう、無意識に子供に戻り、
そして大人になることを覚えてきたのだ。
でもあの時に、今の心を持って子供の世界で行動していたなら、私は大罪に問われてい
たかもしれない。(ルパンに何をしていたことか)