不思議台湾





 “台湾“ この重苦しい言葉に関心を持ったのは、94年である今から5年前のことである。私は中学を卒業し幼い頃からの夢であった芸能人というものを目指し、東京へ行き定時制の高校に入学した。それとほぼ同時に、毎日アルバイト情報誌とテレホンカードを手にしいろいろな街を駆けずり回っていた。そして、東京千駄ヶ谷にあるルノアールという喫茶店に落ち着くことになりほっとした。このルノアールという喫茶店は、東京では結構有名であちこちにある店だった。そこに入店して私は、三人の台湾人に出会うことができた。

 一人は林さん、通称シャオミーと呼ばれている当時19歳の女の子と、恵美という23歳の女の子。そして林さん、通称マミーさんという年齢は不祥だが三十路を越えているのは明らかである女性だ。

 このシャオミーは昼間日本語学校に通い、その合間を利用してアルバイトに通う、背の低いかわいい女の子だった。恵美は何らかの事情で日本人の養女となり暮らしていたちょっと影のある女性だ。マミーは、その二人の面倒をよく見、相談事を良く聞いてあげ、時には叱ってあげたりする誰にでも笑顔で優しく強い女性だった。

 毎日他愛の無い会話をしていたある日、私が中国語で一から十まで何と言うのかを聞いたのが事の始まりだった。突然興味が湧いてきたのだ

 それから、毎日一つずつ単語や簡単な会話を覚え、その上3人に発音がいいと誉められた私である。早速本屋に行ってNHKのテキストを買い、ラジオ、テレビで勉強して翌日それを試して3人に聞かせた。

 そうするともう止まらない、今度は実際に台湾に行きたくなった。すぐ旅行代理店へ行き、パンフをぶんどり家に持ち帰ると即座に決めた。それからは自分でもすごいと思った。 パスポートの申請、旅行の諸手続き、諸々の面倒な用意をすべて自ら準備した。16歳にしながら大人ほどの見事な進行だった。

 それからは早かった。10日という日はあっという間に過ぎていった。

 そして台湾だ!!。初めての海外旅行に戸惑いながらも、隠しきれないほどの期待と不安を胸に機上の人となった。そして一ヶ月前からの憧れの国、南国のパラダイス“台湾”に到着だ。“おお神よ、私をお導きくださりありがとう”と心でつぶやいていた。普段、神なんぞと到底縁の無い私だが、その時ばかりは七福神系の顔を持ち、全長三十メートルはあろうかと思われる架空の神が、デカデカと目の前に映し出されていた。

 そう、その神のお陰で台湾ではいろいろな出来事があった。私は台湾ではビックスターだと実感した。道ですれ違うもの、様々なお店、ホテルで私は注目の的だった。(気がした)多分、台湾ウケする顔の作りなのだろうと納得し、同時にこの地なら幼い頃からの夢である。芸能人も成功するとほくそえんだ

 それはさて置き、神が最初に私に巡り合わせたのはブランド物のコピー店を営む“林 村田(リンムラタ)” というオヤジだ。私が、空港からホテルに到着し、早速街を散策しようとしていた直後の出来事だった。林はホテルのドアから出た私にすかさず声をかけてきて、その怪しげな形相(ぎょうそう)で私に名刺を授けた。

 その名刺も、漢字の横にカタカナで“リンムラタ”と音読みと訓読みがごっちゃになったナントも怪しい名刺だった。 その時の私は恐れを知らなかったので、林と一緒に道路を一本渡ったとあるビルに向かった。古い雑居ビルに入り、手動開閉のエレベーターを三階で降りたところに全く商売っ気の無い林の店があった。そして重い鉄の扉を開け入ると、再び何個も鍵をかけ閉ざされた。 すると中には、もう一人やはり怪しい男がいた。“しまった!一人じゃないんだ!!”と思ったが、時はもう遅かった。重ねて言わせていただくが、その時の私は無知だった為、この商売は陽の当たる道を歩くこともできず、仲間にさえいつ裏切られるか分からないそんな危険と隣り合わせのビジネスは、一匹狼でしのぎを削っているのだと思っていた。そんな乏しい知識しか持ちあわせていなかった私は、観光ブックもろくに読んでなかった己を罵倒した。 そんな心知ってか知らずか、林は尚も奥に進んで行き左手にあるもう一つの部屋のドアを開けた。

 びっくり仰天だ!!  二十畳ほどのスペースに、数えきれないほどのニセブランド品がところ狭しとばかりにぎっしり並んでいた。部屋に入るなりまた3つほど鍵をかけ、社長である林が直々にたどたどしい日本語で説明し出した。 「これみなコピーね。たくさんアルヨ!ルビタン、ロレキシ、クチ(ルイヴィトン、ロレックス、グッチ)何でもある。あんた好きなの買え!。」  私は恐怖のどん底だった。買わないと言えば間違いなく外には出られなかっただろう、とその時は考えた。合計7つほどかけた鍵がそう教えてくれた。

 「ああ、私は香港の九龍城のように、一度入ったら出てこられなくなって、骨の一本さえ見つからなくなってしまうのはイヤだ」。もう恐怖のズンドコの私は、うらはらに林には最高の笑みを見せた。多分、それを悟られたくはなかったのだろう。私は急いでヴィトンの財布を手に取り、「わーすてき!こんなの初めて見た」などと悲しいことを口にし値段を尋ねた。すると、それは1800NT$(ニュータイワンドル)、日本円で9千円だという。すかさず私は「ゲッ、高い、まけろ!」とほざいた。 己の身に危険が降りかかるかもしれないという時に※ツラッというとは、やはり私もしっかりしている。でも林は優しかった。快く1400NT$、日本円で7千円にすると言う。そんなに安くなるなら最初からいいやがれと思いつつも二度目の交渉には及ばなかった。私はさっさと財布を買いその場を切り抜けた。また来てねとていねいに出口まで送ってくれる林には目もくれずすばやく店を後にした。本当に命拾いをした。でもいい経験をした。よっぽどの馬鹿じゃない限り、二度と同じ事はしないだろう。とは言っても今から考えてみれば実際そんなに危険なところではない。                       ※ツラ 北海道で「へっちゃらな・・・」

 そして私は気を取り直すことにして、近くの百貨店にショッピングに行くことに決めた。そこでしばらく買い物をして一階に降りた私に、売り場の女性店員が声をかけてきた。日本人だというのは知っていたみたいで、私と話がしたいと申し出た。私は取りたてて用も無く暇だったのでOKの返事を出すと、彼女は堂々と売り場の真ん中にあるテーブルに私を座らせ、話をしだした。すると、近くにいたあちこちの売り場の店員達も、仕事を捨て集まってきた。多分8人いたと思う。習いたての中国語と筆談で様々な事を話し続けた。彼女らは、とても熱心に日本の様子や、働く女性の事情など私に質問を投げかけていた。

 そうこうしてしばらくすると、最初に声をかけた店員は、ちょっくら買い物をしてくるから待ってろと言い残し、5分くらいして戻ってくると私にごちそうすると言い、中に何が入っているか分からない“台湾風あんみつ”の様なものを差し出した。見てくれは良くないものの大変おいしかった。それより彼女が、この私に気遣ってくれた心が嬉しかった。そうこうしているうちに時間は流れ、すでに6時間が経過していた。びっくりした。何より、彼女たちが6時間も仕事をサボっていたことに驚いた。でも私は、本気で向き合って話した会話と優しい気遣いを忘れないだろう。

 それからもいろんな人々に会い、いろんな事がいっぱいあった。料理も飲み物も美味しかった、人が暖かかった。本当に書ききれないくらいだったのだ。

 3日間という日はあっという間に流れて行き、とうとう帰国の日がやってきた。とてもなごりおしい、帰るのはイヤだと思っても、到底私の無駄なあがきだ。最後に空港で台湾に乾杯でもしようと思い、日本にもよくある紙コップにジャーッという自販機で、適当にボタンを押した。

 私が行ったのは、8月のクソ暑い盛りだ。 ホットの表示も無いのに、勝手にクソ熱いのが出てきやがった。私は仕方ないと思いそれを口にした。口にして二度びっくりだ。そのドリンクは、パイナップルの果汁と牛乳をまぜ、ホットにしたものだった。美味しいとも美味しくないとも言えないが、

 その不思議めいた味の飲み物を全部飲み干した。

 その後、まもなく私は帰国の途についた。本当に最後まで、不思議で怪しい国だった。またこの国を訪れる機会があれば、今度はもっとすばらしい体験をしたいと願っている。

追伸   
 林村田もデパートの売り子も、その他巡り合った人たちも、みんなみんなたくましく生きてね。

                                                           (p) 1993